vol.62 Atelier du Vin
飯島 明さん

医師と兼業のワインづくり
医療で人を健康に
ワインで人を幸せに

vol.62 Atelier du Vin<br>飯島 明さん<br><br>医師と兼業のワインづくり<br>医療で人を健康に<br>ワインで人を幸せに

平日は脳外科医、週末は農夫

夏のとある土曜日。飯島明さんが炎天下のぶどう畑で垣根仕立ての畝間を赤いスピードスプレイヤー(通称SS)に乗り、獣害対策のために仕掛けた檻の様子を見にきた猟師と一服しながら談笑し、麦わら帽子をかぶり直して再びボルドー液の噴霧に戻ります。その声も態度も鷹揚で自然体、からりとした人柄が伝わってきます。

畑に立つ姿はどこから見ても “田舎の農夫”といった風情の飯島さんですが、平日は東京都新宿区にある総合病院に脳神経外科医として勤務しています。金曜の夜になると愛車のフィアット500のハンドルを握り、東御市へやって来て、週末ごとに畑に立ちます。

その間に病院からの呼び出しがあれば、当然のことながら東京へトンボ返りとなりますが、部長を務める飯島さんの仕事はあらかじめ予定が組まれており、頼もしい部下の存在もあって、緊急を要することは今ではほとんどないのだとか。

現在58歳。60歳になったら、医者と農家の兼業から農業に軸足を移し、ワインづくりに打ち込みたいと考えています。

中古のSSで噴霧作業をする。農機具もネットオークションで手に入れたものがほとんど
洋ナシは5年目。いずれポワレを仕込む

大学生活14年、そしてワインと出会うまで

飯島さんが“最初に”通ったのは、明治薬科大学でした。1年間、海外を放浪したり、気ままな大学生活を過ごし、将来の展望がないまま卒業を迎え、次に通ったのは東京外国語大学でした。ラグビーばかりしていた飯島さんは、いよいよ自分が本当にやるべきことを心に決め、バブル景気に沸く世相と逆行するように西へと向かい、長崎大学の医学部に入学し直しました。

ワインとの出会いは、大学病院に勤務していた頃のこと。2002年、家族とともにフランス・パリへ渡り、1年をかけて最先端のカテーテル治療を学んでいた時に、日常的に飲まれるワインに魅せられたのです。

帰国後は、ソムリエの田崎真也さんが主宰するワインスクールへ通い、また、醸造家の新井順子さんの著書『ブドウ畑で長靴をはいて』を読み、ワインがどんどん身近になっていきます。

人命に関わるストレスの多い仕事をする身にとって、ワインに思いを馳せるひとときは、何よりの息抜きとなりました。

そして2011年。東日本大震災があったその年、10年間勤めた大学病院を辞めて現在の病院に移り、働き方ともども生き方を変えました。伝手を頼りに畑を借り受けてぶどう栽培をはじめたのは、飯島さんが50歳の時でした。

ワインで誰かを幸せにしたい

週末ごとに東御市へ通っては耕作放棄地を開墾していき、2012年春にピノ・ノワールを植えました。その後、洋ナシ畑を借り受け、また別の畑にはメルローを植えました。

2018年には醸造免許を取得し、小さなワイナリーを設け、いよいよ自身の手で醸造を開始しました。栽培や醸造に必要な知識はネットで調べ、必要な道具はネットオークションで手に入れました。

ぶどう畑には木の支柱を立てた

「『そんな時間よくありますね』と言われますが、常に忙しいわけではない。『医者なんだからお金はあるでしょう』と言われますが、決してそんなことはない。勤務医なんて知れてます」と飯島さんは笑います。

「大きな資金を投入してワイナリーをつくる人がいるけど、僕にはできません。やれる範囲でやりたいことをやる。良いものをたくさんつくるのはお金も労力もかかるけど、良いものを少しだけつくるなら、ずっと簡単なんですよ」

飯島さんは「人を幸せにできるワインをつくりたい」と言います。「お医者さんも人を幸せにする仕事ですね」と返すと、「医者は治すだけ」との返事。“病気の人”を“普通の人”にして、そのうえで感じられる幸せを、ワインをとおして届けたいのだと、飯島さんはからりと言いました。

醸造に必要な設備は最小限に整えて最大限に生かす。こちらもほぼネットオークションで入手した
東御市のチーズ工房「アトリエ・ド・フロマージュ」の向かいに新たな用地を手に入れた。ショップを建てるため、整地から行なっている
(取材・文/塚田結子  写真/平松マキ)

飯島 明

いいじま あきら

1961(昭和36)年生まれ、埼玉県川口市出身。長崎大学医学部を卒業後、脳神経外科医となる。2011年から東御市でぶどう栽培をはじめ、週末ごとに通いながら畑に立つ。2018年に醸造免許を取得してワイナリーを設立した

Atelier du Vin

アトリエ・デュ・ヴァン

所在地 東御市新張690-3

2020年03月06日掲載