宮﨑 匠さん|陶芸家

宮﨑 匠さん|陶芸家

高遠焼といえば、白と青の釉薬が溶け合うような器を思い浮かべます。宮﨑匠さんがつくる器もまた呉洲を用いた美しい青が特徴的でしたが、地元である高遠の土が手に入るようになって、その陶肌が変化してきました。

地元、高遠の土で焼く器

高遠から諏訪へと抜ける杖突街道と、並行するように走る県道を北上することしばし。美しい棚田を抜け、廃校となった小学校の木造校舎を通り過ぎ、人家の途絶えた心細さが、やがて不安に変わるころ。庚申搭(こうじんとう)を目印に道を反れ、斜面を上ってようやく辿り着いた先に建つ大きな古民家。

思わずもれた「なんでまた、こんな山奥に」という言葉に、出迎えてくれた宮﨑匠さんが、すまなそうに口を開きます。「このへんは昔から集落があったところで、800年くらいの歴史があるそうです」

匠さんの父、守旦(もりあき)さんは陶工で、縁あって1999年にこの地に移り住み、窯を築きました。匠さんも親に連れられて小学生の頃から遊びに来ていたものの、まさか移り住むとは思っていなかったとか。

「福島とか栃木とか、あちこちさがしていたそうですが、なかでも一番ひどい場所、ひどい家だって母と話すんです(笑)。それでも父は、ここの何かに惹きつけられたんじゃないでしょうか」

子どもの頃から父親の仕事を間近に見てきた匠さんは、高校卒業後、迷うことなく京都にあるやきものの職業訓練校へすすみます。修了後は京都市内の窯元で修業を積み、6年後に帰郷して、守旦さんと並んで作陶をはじめました。

高遠焼の歴史は200年ほど。高遠城内に水を引くため、美濃から呼び寄せた陶工に土管を焼かせたのがはじまりとされています。その工事が終ると、陶工たちは生計をたてるために、鉢や瓶(かめ)といった生活用品をつくるようになりました。

かつての採土場には建物ができ、長らく高遠で土を採取することは困難とされていました。しかし匠さんは、最近になって知り合いから大量の土をもらいうけることになったのです。その量およそ30トン。

「工事のために掘ったら、ほとんどが粘土だという報せが来て。そこは、高遠で初期に陶土が発見されたという資料が残っているところなんです。これほどまとまった量をもらえるのは、滅多にないこと。耐火度の高い別の土を混ぜるので、ほぼ一生分です」と匠さんは言います。

高遠の土は鉄分を多く含み、焼くとソバカスのような鉄点があらわれます。これがなんともいえない味わいですが「出過ぎてもうるさいので、土の配合をいろいろ試しました」

ざらりとした土を、薄びきの技術にも長けた匠さんが蹴ロクロでひくと、武骨ながらも繊細さを宿した形があらわれます。そして温もりある色味の釉薬が、サビの浮いたような土肌とよくなじみます。手に取れば、重厚な見た目を裏切る軽さ。

期せずして地元の土を手に入れた匠さんですが、すでにその魅力を存分にひきだした器をつくりはじめています。

人里離れ、清流の流れる静かな山は、四季折々に美しく彩られます。今でも現在進行形で家づくりのすすむ古民家の一室で、匠さんは父と並んで今日も作陶に励みます。

窓越しに見る工房の様子。黙々とロクロに向かう姿に見とれてしまう
高遠の土は鉄分を多く含む。鉄点の出方を見ながら、まぜる土との配合を調整した。釉薬もいろいろ試してみたという
使うのは蹴ロクロ。「疲れませんか」とたずねると「慣れてますから大丈夫。この方が速度の調整がしやすいんです」と匠さん
食卓を盛り立て、料理を引き立てる器たち。古い民窯の器を参考にすることもあるとか。「最近のものより、昔の器の方が新しく感じます」
宮﨑 匠
みやざき たくみ

1983年、東京都青梅市生まれ。京都府立陶工高等技術専門校を修了後、京都市内の窯元で6年間の修業を積む。2010年に高遠町にある実家へ戻り、陶工である父親の守旦(もりあき)氏のもとで作陶をはじめる。2015年から地元の土を用いて器をつくる。

作品を購入できる場所

Gallery sen(ギャラリーセン)

住所|長野県松本市中山6573

http://1000gallerysen.wix.com/1000

取材・文|塚田結子  写真|平松マキ
2015年11月13日掲載