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ワインのつくり手を訪ねて

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塩尻市vol.31 JA塩尻市ワイナリー唐沢 義信

地元産ぶどう100パーセント。農家と手を携えたワインづくり

桔梗ケ原の風土に根づいた
コンコードとナイアガラ

桔梗ケ原でぶどう栽培がはじまったのは、今から120年以上も前のこと。
豊島理喜治という人が1890(明治23)年に、1ヘクタールほどの農地に20数種のぶどうを植えたのが最初とされています。
もともと桔梗ケ原の地は、水に乏しく土はやせ、耕作不適地として放置されていました。見わたす限りの原野にようやく開拓の手が入ったのは、明治時代に入ってから。

年間降水量が少なく、昼夜の寒暖差が大きい。
ぶどうをつくるうえで有利とされる条件でも、冬の寒さ厳しく、遅霜や台風に襲われることの少なくない地でのぶどう栽培は、決して楽なものではありませんでした。
複数植えられた品種のうち、そんな過酷な風土に耐え、広く普及したのがコンコードとナイアガラでした。
どちらも北アメリカ原産ぶどうの系列に属し、耐寒性や耐病性に優れた品種です。

2013年春先の天候は不安定で、桜開花後も厳しい寒さに見舞われました。
「今年は凍霜害でやられたから、上の畑はほぼ全滅です」と言うのは、ぶどう農家の臼井清孝さん。
「下の畑でも、本来はもっと先端から芽が出なきゃいけないのが、今年は根元から1本しか出ていない。こういうのは副芽といって、普通は全部落とすんです。でも今年はしょうがないからこれを残しました」

「上」と「下」の標高差は5メートルから10メートルほど。
「気温にも差が出るんでしょうね。ここらの下の畑は凍霜害の影響は少なかった。ちょっとしたところで、ずいぶん違います」

気温だけでなく、地質にも違いがあります。
「この辺は10センチも掘ると石なんですよ。扇状地なんで水はけがいい。ぶどうにとっては最高の土です。上の畑は火山灰土になるのかな。あれはよくないですね」
という臼井さんの言葉を受けて「それを栽培技術でカバーしていただいています」とJA塩尻市ワイナリーの唐沢義信さんが言います。

臼井さんいわく「ここは前の持ち主さんが棚を高くつくってありました。棚下の作業って、昔は男性はあまりやらなかったんですよ。奥さんとかおばあさんとか、小柄な人がやるものだったので、こういう高いのはめずらしいですよ」

臼井さんいわく「ここは前の持ち主さんが棚を高くつくってありました。棚下の作業って、昔は男性はあまりやらなかったんですよ。奥さんとかおばあさんとか、小柄な人がやるものだったので、こういう高いのはめずらしいですよ」

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JA塩尻市の直売所「新鮮市場ききょう」の一角には、ワインがずらりと並ぶ。なかでも人気は一升瓶ワイン。ぶどう生産者に加工料金だけでワインを販売する「還元ワイン」という、自家消費を基盤にしたワインづくりの伝統が残る

JA塩尻市の直売所「新鮮市場ききょう」の一角には、ワインがずらりと並ぶ。なかでも人気は一升瓶ワイン。ぶどう生産者に加工料金だけでワインを販売する「還元ワイン」という、自家消費を基盤にしたワインづくりの伝統が残る

甘味ぶどう酒の
原料供給地として発展

最初はおもに生食用に栽培されていたコンコードとナイアガラですが、皮が薄く傷みやすいため流通に向かず、次第に他の品種に押されて需要が落ちていきます。
しかし昭和10年代に寿屋(現在のサントリー)と大黒葡萄酒(後のオーシャン、現在のメルシャン)の工場誘致に成功し、桔梗ケ原のぶどうは加工用として活路を見出します。
世の中では、赤玉ポートワインに代表される甘味ぶどう酒が大流行していたのです。

「この辺のお年寄りはワイン工場でなくて、ぶどう酒屋さんて言うんですけどね。うちの親父さんたちのときは、そういうぶどう酒屋さんにぶどうを出してました」
そう語る臼井さんは昭和29年生まれ。子どもの頃から畑を手伝い、暮らしのなかに「ぶどう酒=ワイン」がありました。
「この辺では祭りといえばお酒じゃなくてぶどう酒が集まるっていうくらい、昔からワインが身近にあった土地柄なんです」

もともと会社勤めをしていた臼井さんは「気力も体力もあるうちに」と定年まで3年を残して早期退職し、家業のぶどう農家を継ぎました。
臼井さんは父親から継いだ「上の畑」でおもにナイアガラを、新たに借り受けた「下の畑」でおもにコンコードを栽培しています。

最近では「桔梗ケ原メルロー」で名を馳せるこの地も、もともとはコンコードとナイアガラに支えられ、発展してきたのです。
「JA塩尻市へ加工用として出荷されてくるぶどうは、コンコードとナイアガラが約9割を占めます。メルローやシャルドネの栽培もかなり盛んですが、まだまだ塩尻のぶどうといえばコンコードとナイアガラなんです」と唐沢さんは言います。

地元農家を守るために
農協としてできること

かつてぶどう農家では、自家用にワインをつくることが当たり前のように行われていました。
1940(昭和15)年に酒税法が施行(昭和28年に改正)され、戦後になって密造酒が厳しく取り締まられるようになると、桔梗ケ原でも「自分たちで飲むワインは自分たちでつくろう」という機運が高まります。
そして56(同31)年に塩尻市広丘郷原地区のぶどう農家を中心に「広丘農産加工農業協同組合」が結成され、通称「マル広ワイン」がつくられるようになります。
86(同60)年にJA塩尻市へ合併後、ワインづくりも引き継がれ、翌87年には現在の地にワイン工場が新設されます。

唐沢さんはJA 塩尻市に入所以来、20年間ワインづくりに携わっています。
「農家を守るために、コンコードとナイアガラに付加価値をつけて市場に出すことが農協職員としての義務」だと唐沢さんは語ります。
「ナイアガラの引き取り金額って、もともと1キロあたり130円だったのが、今は80円くらいになってるんです。『もうナイアガラなんてつくりたくない』という方も増えています。がんばってつくってもらいたいという思いがあって、うちでは100円で買っています」

そして農協ならではの取り組みが「生産者還元ワイン」。
ぶどうを出荷した農家に対し、加工料のみの価格でワインを販売する仕組みです。
「『おつかいものにすると喜ばれるんだよね』って。多い方では年間200本くらい。そういう使い方をしていただいていると、私としてもすごくうれしい。返ってくる答えが直球なんですよ、農家の方って、あんまりお世辞を言わないから。いい年は『唐沢くん、今年のワインはよくできてるわー』。ダメな年はボロックソです。みなさん自分のつくったぶどうは最高だと思って出荷してるから(笑)、私がうまく加工したかどうかで、ものすごい差が。だからその年々でつくりがいがあります」

 

(取材・文/塚田結子  写真/平松マキ)

 

「塩尻高校では、当時の教諭だった高山秀士先生にすごく良くしていただいて、仕事に就いてからも師弟のような関係でした。高校でもいいワインをつくっているし、私もいいワインをつくりたいと切磋琢磨してきました」と語る唐沢さん

「塩尻高校では、当時の教諭だった高山秀士先生にすごく良くしていただいて、仕事に就いてからも師弟のような関係でした。高校でもいいワインをつくっているし、私もいいワインをつくりたいと切磋琢磨してきました」と語る唐沢さん

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唐沢 義信(からさわ よしのぶ)

1973(昭和48)年生まれ。山形村出身。塩尻高校(現在の塩尻志学館高校)、東京農業大学短期大学部醸造学科卒業後、JA塩尻市入所。醸造から販売まで、ワインづくりのすべてに関わる。

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JA塩尻市ワイナリー

所在地 塩尻市広丘郷原1811-4
TEL 0263-53-9110

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