ワインのつくり手を訪ねて

Vol.15 信濃ワイン

塩尻市Vol.15 信濃ワイン塩原 悟文

代々の本物志向のワインづくり

養蚕からぶどう農家へ
やがて栽培から販売まで

1916(大正5)年。生糸の生産量、輸出量ともに右肩上がり、世の中で養蚕が盛んだった頃、塩原悟文さんの曾祖父にあたる兼一氏は、桔梗ヶ原に所有する広大な桑畑の一角にぶどうの苗木を植えます。その頃すでに一帯ではぶどう栽培が行われ、ワイン醸造もはじまっていました。

1920(大正9)年の戦後恐慌では、生糸の相場が暴落して、いくつもの製糸家が廃業へと追い込まれ、そのあおりを受けて桔梗ヶ原でも、多くの農家が桑からぶどうへ移行したといいます。さらに昭和に入ってから、金融恐慌で致命的ともいえる打撃を受けた製糸業に見切りをつけ、兼一氏から家業を継いだ武雄氏は、全面的なぶどう栽培へと舵を切ります。

その頃、桔梗ヶ原でおもにつくられていたのは、寒さに強い北アメリカ原産ぶどうの系統に連なるコンコードやナイアガラでした。しかし皮が薄く痛みやすいため流通に向かないこと、また他品種の台頭もあって、生食用の需要が落ちていきます。

そこで、武雄氏をはじめ地域のぶどう生産者の仲間たちは、当時、日本で大流行していた「甘味ぶどう酒」の製造元である寿屋(現在のサントリー)と大黒葡萄酒(現在のメルシャン)の工場を誘致しました。2つの工場を相次いで誘致したのは、加工用ぶどうの買い取り値を競わせるため。農家も競って品質の良いぶどうをつくったといいます。

戦争の混乱がようやくおさまった1951(昭和26)年のこと。武雄氏は息子の博太氏(悟文さんの父親)とともに「塩原食品研究所」を設立し、自分たちの手によるジュース、ジャムづくりに乗り出します。生食用からはじかれた農産物を加工して売り、周辺農家の収入を少しでも増やしたいとの思いがありました。

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種類豊富なワインだけでなく、ブランデーもつくっている。用いるのは「アランビック」と呼ばれる銅製の単式蒸溜器。悟文さんによると「単式蒸溜釜は完成度の低い機械なんですね。そこがいいところでもあって、不純物が同時に蒸溜される。不純物のなかにおいしさ、香りがあるわけです」

種類豊富なワインだけでなく、ブランデーもつくっている。用いるのは「アランビック」と呼ばれる銅製の単式蒸溜器。悟文さんによると「単式蒸溜釜は完成度の低い機械なんですね。そこがいいところでもあって、不純物が同時に蒸溜される。不純物のなかにおいしさ、香りがあるわけです」

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信濃ワインのある「洗馬(せば)」という地名は、この地の湧水で木曾義仲が馬を洗った伝説にちなむ。「地下室のまわりにも地下水があります。湿度が高くなるので樽のまわりに自然と黒カビが生えます。カビ自身にも温度や湿度をコントロールする役割があるんですね」と悟文さん

信濃ワインのある「洗馬(せば)」という地名は、この地の湧水で木曾義仲が馬を洗った伝説にちなむ。「地下室のまわりにも地下水があります。湿度が高くなるので樽のまわりに自然と黒カビが生えます。カビ自身にも温度や湿度をコントロールする役割があるんですね」と悟文さん

「生ぶどう酒」にはじまる
本格的なワインづくり

さらに1955(昭和30)年には、東京の会社と提携して「日本果汁工業株式会社」を設立します。原料の仕入れから加工までを行い、提携先に販売を委ねますが、商品は売れず在庫は増える一方。ならば自分たちの手で製造から販売までを一貫して行おうと、翌56年には「塩原物産株式会社」を設立します。

濃縮果汁やトマトペーストなどの製造とともに、取り組んだのが本格的なワインづくり。「当時はワインではなく『生(き)ぶどう酒』と呼んでいました」と悟文さん。しかし世の中で好んで飲まれていたのはまだまだ甘味ぶどう酒で、ワインを楽しむ人はほとんどいませんでした。

「生ぶどう酒にアルコールと水と糖類を入れて、あとは香りと色をちょっとつけた甘味ぶどう酒は、口当たりが良く、飲みやすいってことで、当時は非常に人気がありました。しかし父たちはそういうものはつくらずに、本物をつくっていこうと。でもなかなか売れなかったそうです」

転機となったのは、1964(昭和39)年開催の東京オリンピックでした。ようやく日本の人々は本物のワインを知り、自分たちが飲んでいた甘味ぶどう酒がワインとは似て非なるものであることを知ったのです。そして69(同44)年、生ぶどう酒がワインとして定着した頃、商品名であった「信濃ワイン」に社名を変更します。

悟文さんは東京農業大学醸造学科を卒業後、ミシガン州立大学へ留学します。夏休みを利用して農家に住み込んで農作業を手伝ったり、当時すでにワインづくりをはじめていたカリフォルニア州のナパやソノマを訪ねたり。

「当時はまだワイナリーは少なく、規模も小さく、すべて手作業でやっていました。アメリカのみなさんはまだワインを飲む習慣がなかったんですね」。そして1976(昭和51)年、帰国してすぐ悟文さんは家業に入り、2001(平成13)年に代表取締役社長に就任してからも現場に立ち続けています。

より良いぶどうを選別し
より高品質なワインをつくる

現在、栽培担当として自社畑を担うのは1986(昭和61)年生まれの斉藤啓太さん。千葉県出身の斉藤さんは、東京都内のワインショップに勤めながらワイン学校で学び、「ワイン用ぶどうがつくりたい」という強い思いを胸に、2011(平成23)年の冬にIターン転職を果たしました。

「やっぱりこの土地のことは、この土地の人に聞かないとわからない。幸いまわりはプロフェッショナルの方ばかりなので、わからないことは何でも教えていただいています」

自社畑のほか多くの契約栽培農家に支えられ、信濃ワインでつくられるのはメルロー、シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニヨン、ナイアガラ、竜眼など。なかでもメルローは、国産ワインコンクールでの受賞を重ね、2012(平成24)年には国産ワインとして唯一、全日空国際線ファーストクラスで提供されるワインのひとつに選ばれました。

より良いワインを仕込むために何より大事なのは「選別」なのだと悟文さんは言います。「いいものだけを集めて仕込む。選別にどれだけの手間をかけられるか、当たり前の簡単なことですけど、大事なことです」

「ワインづくりには教科書みたいなものはない。自分でどれだけ失敗を重ねたか、どれだけ苦い思いをしたか、そういう経験をどれだけ持っているか。もうちょっとこうしたらいいんじゃないかと、私自身が今もやっているところです」

そう語る悟文さんにとって、ワインづくりの魅力とは。「畑で育つものからお酒ができることが、まず不思議です。つくり手とかなんとか言ったって、つくっているのは、どなたの力でもない、発酵の力。そういう自然の力のすごさを感じながら働けるってのがいいですね」

 

(取材・文/塚田結子  写真/平松マキ)

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若き栽培担当者、斎藤啓太さん。醸造用のぶどうがつくりたいと、この地にやってきた。「日本ではまだまだ醸造用ぶどうをつくっている方が少ない。資料も海外のものだったらあるんですが、気候や条件が全然違う。やはりこの土地のことは、この土地の人に聞かないと。みなさん本当に何でも知っていますから」

若き栽培担当者、斎藤啓太さん。醸造用のぶどうがつくりたいと、この地にやってきた。「日本ではまだまだ醸造用ぶどうをつくっている方が少ない。資料も海外のものだったらあるんですが、気候や条件が全然違う。やはりこの土地のことは、この土地の人に聞かないと。みなさん本当に何でも知っていますから」

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塩原 悟文(しおはら のりふみ)

1952(昭和27)年、塩尻市生まれ。東京農業大学醸造学科卒業後、ミシガン州立大学へ留学。76(同51年)に信濃ワイン株式会社入社。2001(平成13)年より代表取締役社長を務める。エノログ(ワイン醸造技術管理士)に認定されている。

信濃ワイン
信濃ワイン株式会社

所在地 長野県塩尻市洗馬783
TEL 0263-52-2581

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